モンゴル横綱時代を作った朝青龍関

2017年11月18日

モンゴル横綱時代のパイオニアが朝青龍関である

今年の初場所後に、田子ノ浦部屋所属の稀勢の里関が横綱に昇進したことでブームになったことは記憶に新しいと思いますが、稀勢の里関は第72代横綱に該当し、日本人の横綱としては二子山部屋に所属していた第66代横綱若乃花関以来のことでした。それまでは、武蔵川部屋の師匠を務めている第67代横綱武蔵丸関がアメリカハワイ州出身を除けば全てモンゴル出身の横綱が続き、特に、この夏場所で久しぶりの優勝をした宮城野部屋所属の第69代横綱白鵬関の優勝回数は38回で、角界史上初の記録を残し続けており、平成の大横綱の1人と数えられるほどです。そのようなモンゴル横綱時代のパイオニアとして活躍したのが、第68代横綱朝青龍関です。今回は、その朝青龍関にスポットを当ててみたいと思います。
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明徳義塾高校で相撲の基礎を身につけて角界で強みを開花させる

朝青龍関は昭和559月生まれの36歳で、モンゴル国の首都であるウランバートルで誕生し、本名はドルゴルスレンギーン・ダグワドルジという名前ですが、相撲関係のパンフレットなど、日本国内ではドルゴルスレン・ダグワドルジと表記されることが多いです。朝青龍関が相撲経験を積み始めたのは、15歳の時で地元のモンゴルでは有名なモンゴル相撲からでした。この経験を活かす形で今から丁度20年前に相撲留学の名目で来日し、相撲の名門校の1つである明徳義塾高校の相撲部で四股やテッポウなどの相撲の基礎を身につけていきました。高校2年生だった平成11年初場所に、当時若松部屋の師匠を務めていた元大関朝潮関からのスカウトを受ける形で、高校を中退した上で、上京して若松部屋に入門し、初土俵を踏みました。四股名の朝青龍は初土俵を踏んだ当時からつけられ、これは明徳義塾高校の近くにある青龍寺からつけられたものとされています。ちなみに、同じ若松部屋には1年遅れで、錦島親方として高砂部屋で後進の指導に当たっている元関脇朝赤龍関も入門しましたが、朝青龍関と同時に明徳義塾高校に相撲留学をしたことなどから似たような四股名が付けられたとされています。

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朝青龍関の強みは、廻しを取らずに突っ張ったり押し出したりして攻めていくことだけでなく、左四つに組んでから寄り倒したり、右からの上手投げ等の投げで仕留めたりすることでした。また、決まり手の数が40種類を越える技の多彩さも兼ね備えていました。これらの強みを活かして番付を上げていき、丁度20歳を迎えた平成12年秋場所には関取の座を掴み、入門から丸2年後の平成13年初場所には新入幕を果たしました。朝青龍関が横綱に昇進するまでに負け越したのは幕下時代の1回と小結時代の1回だけで、いずれも1点分の負け越しで済んだことなどから、入幕後もハイスピードで番付を駆け上がることができ、直ぐに幕内上位の番付で相撲を取れるようになり、新三役の場所だった平成13年夏場所には三賞の1つである殊勲賞を獲得したり、武蔵丸関から唯一の金星を上げたりするなどの実績を残しました。部屋の名前が若松部屋から高砂部屋に変わり、入門して3年ほど経った頃には関脇の番付で2桁の成績を連続して収めるほどに実力が成長し、そこから半年間で34勝の成績を上げたり、敢闘賞などの三賞に連続して輝いたりする実力が評価されたことから平成14年名古屋場所後に21歳で大関に昇進することができました。大関に昇進してからも強みを活かした相撲が実を結び続けることができ、その年の九州場所には14勝の好成績を収めて自身初の幕内最高優勝に輝きました。次の場所では取り組み中に左足の薬指を脱臼したり、肉離れを起こしたりする怪我を負ったものの、同じ成績で連続優勝を果たし、この場所後に22歳で第68代横綱に昇進することができました。横綱土俵入りの型は高砂部屋が所属している高砂一門の慣例に従う形で結び目が1つで、せり上がりの際に片手を腰に据える雲竜型を選択しました。この横綱土俵入りの際に太刀持ちか露払いを最後まで勤めたのが先述した朝赤龍関となっています。ちなみに、この場所中に平成の大横綱の1人として活躍した二子山部屋所属の第65代横綱貴乃花関が現役を引退しており、時代の移り変わりを象徴する出来事として当時話題になりました。

次々と大記録を作り上げた力量があった反面、品格で問題を残した横綱時代

朝青龍関は、横綱に昇進して半年後、取り組み中に頸部を挫傷する怪我を負って途中休場したことがあったものの、独自に編み出した筋肉トレーニングを取り入れたことによる基礎体力の向上に努めた事や初顔相手に34連勝するなどの精神的な強さがあった事などから毎場所のように優勝したり、優勝決定戦に進出できたりする好成績を収め続けることができ、特に横綱に昇進して丸1年が経った頃に武蔵丸関が現役を引退し1人横綱になってからは、この傾向が顕著なものになりました。1人横綱がスタートした平成16年初場所から2場所連続で全勝優勝を果たしたり、この翌年には全ての場所で幕内最高優勝に輝いたりするなど、まさに朝青龍1強時代とも呼ばれるほどでした。結果として、この年間制覇を含めて7連覇の記録を残し、当時としては史上初の記録でした。3年間で15回も優勝を重ね、うち3分の1にあたる5場所は15戦全勝という成績を残しました。しかし、モンゴルの後輩にあたる白鵬関が横綱に昇進してからは、両肘の内側側副靭帯を痛めて途中休場をしたり、複数の怪我などから巡業の休止を届けていた間にオフの時間を楽しんでいる様子が公開されてしまったことなどが原因で2場所連続出場停止になってしまったりするなど、これまでのような活躍を示すことが難しくなってしまいました。それでも平成20年代に入って出場停止処分が終わった後でも4回の優勝を重ねており、休場した場所を除いて全て10勝以上の成績を収めていたことを考えれば横綱としての務めは十分に果たせたのではないかと思われます。しかし、平成22年初場所に14勝の成績を収めて優勝した後に、この場所中に起こした私的な乱れに関する事項が問題に浮上してしまいました。そして春場所前に29歳で責任を取る形で現役を引退してしまいました。

朝青龍関は最終的に幕内最高優勝を25回、年間最多勝5回、年間最多勝84勝、35連勝など白鵬関に抜かれるまで、新記録を果たした項目が複数あるなど、横綱として土俵を務めている間は、三保ヶ関部屋所属の第54代横綱北の湖関や九重部屋所属の第58代横綱千代の富士関などの昭和の大横綱と比較しても遜色なく、平成の大横綱の1人である第65代横綱の貴乃花関よりも上の成績を収めていることを考えれば平成の大横綱の1人として数えても問題はないと思われます。しかし、先述した出場停止処分や私的な土俵の外での素行の面を考えると、これはおかしいという声が出ても仕方がないかと思われます。なぜなら、角界では横綱を「その地位(横綱)に相応しい品格と抜群の力量が要求される」と定義されており、ここでの品格は仕事をしているときだけでなく、プライベートなどを含めて人間的に礼儀やマナーがしっかりしていて、他人に対して気配りや気遣いなどを含めた対応ができる成熟した人間であることを考慮した場合、後者の面で申し分のない成績を収めても、前者の面で未熟な面が見られていると考えられます。それでも、2000年代の相撲人気が低迷していた頃の角界を盛り上げた力士の1人であることは間違いないと考えられます。

現在は日本とモンゴルを拠点に幅広く活躍している

現役を引退して7年半ほど経ちますが、現在は日本国内では6年前に起こった東日本大震災の復興支援活動に積極的に関わったり、モンゴル国内では一時、レスリング協会の会長職などの国家レベルの要職に就いたりするなど日本とモンゴルを拠点とした活動を熟しています。