高砂部屋と親方・関取紹介

2017年11月17日

元朝潮関が師匠を務める高砂部屋とは

元大関朝潮関が師匠を務めている高砂部屋は幕末から明治初期にかけて活躍した力士である初代高砂関が興したのが始まりとされており、相撲部屋の中では名門の1つとされています。現在まで、高砂部屋の師匠は初代高砂関の本名である高砂浦五郎をそのまま継承するという習わしがあります。これまで7人の師匠が誕生していますが、直近では、第46代横綱朝潮関が46年前に部屋を継承し、朝潮関とハワイ出身の小錦関を大関まで昇進させるなどの実績を残していましたが、昭和63年九州場所前に死去したことに伴って、元小結富士錦関が部屋を継承しました。今から15年前に富士錦関が定年退職することから、当時、若松部屋の師匠を務めていた朝潮関が部屋を吸収する形で継承して現在に至っています。

その高砂部屋は、東京都墨田区の住宅街の一角に部屋を構えており、観光地として有名な東京スカイツリーと両国国技館とJR及び地下鉄の錦糸町駅の丁度中間あたりに位置しています。周辺には相撲部屋が多く点在しているという特徴もあります。そこから国技館へは徒歩15分ほどで行くことができるほどの近場となっています。現在、高砂部屋には朝乃山関を筆頭に幕下に2人、三段目に5人、序二段に9人の計17人の力士が所属しており、四股名の筆頭に「朝」が付く力士が多いという特徴があります。力士の他にも若松親方と錦島親方の2人が力士の指導に当たっており、さらに行司2人、呼出2人、床山1人と若者頭としてベテランの元十両伊予櫻関も所属しており、少なくとも27人が共同生活をしていることになります。ちゃんこ鍋は他の相撲部屋と同様複数の種類があり、特に高砂部屋ではレシピを公開しているため、これらを試すことができます。種類としては定番とされている鶏肉を使う、そっぷ炊きや塩炊きのちゃんこ鍋から、スルメイカの腸を使った味噌ベースのイカミソちゃんこ鍋や奄美地方の郷土料理である鶏飯(けいはん)をベースに作った鶏飯風鍋など、かわりネタのちゃんこ鍋まで存在しており、なかには一般では、なかなか手に入りにくいアンコウやマンボウを使ったものもあります。なお、高砂部屋の稽古見学は、ツアーを通じてできる可能性があり、このコースの中にはちゃんこ鍋を味わえるものもあります。

高砂部屋の師匠、元大関朝潮関の紹介

現在、高砂部屋の師匠を務めている元朝潮関は昭和3012月生まれの61歳で、少年時代から体格が大きかったことなどから、高校生の時から相撲を本格的に始めて、大学時代に相撲留学の目的から地元高知県から上京し、上級生になると学生横綱とアマチュア横綱のタイトルを2年連続獲得する実績を残すことができました。この実績を評価されたことから、卒業後の昭和53年春場所に自ら志願して第46代横綱朝潮関が師匠を務める当時の高砂部屋に入門し、幕下付出として初土俵を踏みました。この入門の際に「次はプロの世界での横綱を目指す」と明言していました。ちなみに、当時の師匠を務めていた朝潮関は3代目、現在の師匠である朝潮関は4代目として区別されることもあります。

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朝潮関の強みは廻しを取らずに突き出したり押し倒したりする相撲だけでなく、左四つに組んでから身長と体重が同じ数値である、所謂あんこ型の体格を活かして寄り切る内容も得意にしていました。これらの強みは直ぐに活かされる形で番付を急速に上げて行き、2場所後には関取の座を掴み、入門した年の九州場所には22歳で新入幕を果たしたり、この次の場所には10勝を上げて三賞の1つである敢闘賞を獲得したりするなどの活躍を入門して1年間で見せました。朝潮関は入幕後も幕内の地位に定着するほどの実力をしており、入門して丸2年後の昭和55年春場所に昭和の大横綱の1人である第55代横綱北の湖関から初金星を挙げて三賞の殊勲賞を獲得する実績を残してからは幕内上位の番付に定着するようになりました。その間、大卒で唯一横綱の地位を掴んだ花籠部屋所属の第54代横綱輪島関から、昭和の大横綱の1人である九重部屋所属の第58代横綱千代の富士関までの横綱5人を複数回破ったことから金星5つや殊勲賞10個を獲得する実績を残したり、12勝以上の好成績を収めて優勝決定戦を3回も経験したりしました。そして、入門して丁度5年後に当たる昭和58年春場所後には半年間で35勝の成績を残したことや、これまで十数回も横綱を倒すなどの実績が評価されたことなどから、27歳で大関に昇進することができました。ちなみに先述した殊勲賞10個の記録は未だに破られていません。

大関に昇進してから半年後、取り組み中に右膝の内側側副靭帯を痛める大怪我を負ってしまい、途中休場や全休を経験してしまいましたが、相撲内容を、体格を活かした左四つに組みとめてから右の上手投げで仕留めたり、寄り切ったりするものに固めた事などから10勝以上の好成績を再び収めることができるようになり、30歳代に迫ってきた昭和60年春場所で13勝の成績を収めて遂に、幕内最高優勝に輝くことができました。しかし、その後は30歳代になり体力が低下していたことや、苦手力士が複数存在していたことなどから2桁の成績を残すことが難しくなってしまい、33歳だった平成元年春場所中に丸11年間続いた現役を引退しました。ちなみに先述したように、入門、初金星、大関昇進、初優勝、引退という5つのイベントが全て春場所での出来事だったことや出身大学が近畿大学だったこと等から、朝潮関は西地方では人気力士の1人とされていました。また、先述したように、引退する数か月前には先代朝潮関が死去したことによって部屋の師匠が元小結富士錦関に変わりました。

現役引退後は、1年間ほど山響親方として高砂部屋に残って、後進の指導に当たっていましたが、元関脇房錦関が師匠を務めていた若松部屋を平成2年春場所に自身が移動する形で継承して部屋の師匠としての生活を始めました。その後、富士錦関の定年に伴って高砂部屋を吸収する形で部屋を若松部屋から高砂部屋に変更して現在に至っています。師匠として第68代横綱朝青龍関や元関脇朝赤龍関の錦島親方を育てた実績を残しただけでなく、平成12年春場所前から8年間、日本相撲協会の理事として広報部長等を務めるなど、協会の職員としても活躍しています。

幕下付出で最長の13年間を皆勤で土俵に立ち続けた元朝乃若関の若松親方

高砂部屋で部屋付き親方として後進の指導に当たっている元前頭朝乃若関の若松親方は昭和4412月生まれの47歳で、少年時代は水泳と相撲のスポーツ経験を持っており、前者の実力は主将を務めるほどでした。後者は高校に入ってから本格的に始め、大学時代には地元の愛知県を離れて全国大会で活躍するほどの実力を示すようになり、これが評価される形となり、朝潮関が近畿大学のOBにあたることなどから、卒業後の平成4年春場所に当時の若松部屋に幕下付出として入門し、初土俵を踏みました。

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朝乃若関の強みは廻しを取らずに突き出したり押し倒したりすることであり、この強みを活かして番付を上げていき、入門して1年弱で関取の座を掴み、入門丸2年後の平成6年春場所には24歳で新入幕を果たしました。入幕後5年間は安定して幕内の土俵に定着する実力を有していましたが、30歳代を迎える頃になると従来の強みを活かすことが難しくなり、次第に十両で相撲を取ることが増えてきましたが、最終的に引退するまでの12年半近くも関取の座に定着して相撲を取ることができました。朝乃若関は35歳だった平成17年夏場所前に現役を引退し、若松親方として親方生活を始めましたが、特徴的なのは、この期間を含めて引退するまでの13年間で、1日も休まずに現役生活を務め上げた事ではないかと思います。この記録は幕下付出の力士としては最長記録として未だに破られていません。

横綱朝青龍関の弟弟子として有名だった元関脇朝赤龍関の錦島親方

高砂部屋で今年の夏場所から後進の指導に当たっているのが、元関脇朝赤龍関の錦島親方です。朝赤龍関は昭和568月生まれの35歳で、少年時代は地元モンゴルで年数回行われる体育大会に当たるナーダムのうち競馬競技を長く経験していました。ちなみにナーダムのその他の競技は、モンゴル相撲にあたるブフと弓射があります。中学卒業に当たる年齢で朝青龍関と共に相撲留学の名目で来日し、相撲の名門高校の1つである明徳義塾高校で四股やぶつかり稽古などの相撲の基礎を身につけ、インターハイでベスト8に入る実力を身につけることができました。1年前に朝青龍関が入門していたことなどから、高校卒業直前の平成12年初場所に上京し、当時の若松部屋に入門して初土俵を踏みました。

出典: http://www.sumo.or.jp/ResultRikishiData/profile?id=2198

朝赤龍関の強みは左四つに組み止めてから右の前まわしを掴んだり、出し投げを用いたりして相手の重心を崩してから寄り切るなどの寄りや上手からの投げで、逆のパターンに組んでも同様の強みを発揮することができます。これらの強みを活かして番付を上げていき、入門して2年半で関取の座を掴み、それから1年弱が経った平成15年春場所には21歳で新入幕を果たしました。ちなみに、この場所は朝青龍関が新横綱に昇進した場所で、朝赤龍関は横綱土俵入りに当初から、太刀持ちや露払いとして引退するまでの約7年間参加していました。朝赤龍関は入幕して10年近くの間安定して幕内の番付に定着する実力を有していました。特に平成16年春場所には13勝の好成績を上げて、三賞の殊勲賞と技能賞を同時に受賞したり、20歳代後半に当たる平成19年からの2年間は幕内上位の番付に定着して三役の関脇を2場所連続で経験したりするなどの活躍を示すことができました。しかし、場所中に右膝の内側側副靱帯を痛めたり、右足首の関節を捻挫したりする怪我などの影響で途中休場したり、30歳代になって体力面で全盛期の相撲が取れなくなったりした事などから十両で相撲を取ることが増えてきました。それでも陥落してからの3年間は安定して関取の座を保ち続けていましたが、今年に入ってから幕下に陥落してしまい、この夏場所直前に現役を引退し、錦島親方として高砂部屋に残って後進の指導に当たって現在に至ります。なお、最終的には14年半の間関取の地位を安定的に務めるほどの実力を有する力士だったことになります。

高砂部屋における新世代の関取として期待されている朝乃山関

現在、高砂部屋に関取として所属している唯一の力士である朝乃山関は平成63月生まれの23歳で、少年時代は相撲の他にハンドボールのスポーツ経験があり、後者は地元富山県の強化選手に指定されるほどの実力を有していました。中学生になってから相撲一本に絞って実績を積んでいき、高校生の時には選抜高校相撲大会を準優勝したり、大学時代には個人タイトルを7つ獲得したりするほどになりました。そして4年生の時に国体相撲と全日本相撲選手権大会でベスト4の成績を残したことが評価され、学生時代にOBである朝乃若関のスカウトに応じる形で卒業後の平成28年春場所に三段目付出として高砂部屋に入門し、初土俵を踏みました。ちなみに、この三段目付出は数年前から作られた制度で、朝乃山関が最初のケースとなりました。

出典: http://www.sumo.or.jp/ResultRikishiData/profile/?id=3682

朝乃山関の強みは右四つに組んで左の前まわしを掴んでから寄り切ったり、左からの上手投げで仕留めたりすることであり、これらの強みが直ぐに活かされた形で番付を上げていき、入門して丁度1年後の今年春場所に関取の座を掴むことができ、四股名が本名の石橋から今の名前に変わりました。この事は、高砂部屋ができてから途絶えていた関取が1場所で復活したことになったことで話題になりました。ちなみに、この場所で2桁の白星を挙げて優勝決定戦に進出したり、次の夏場所でも勝ち越したことによって負け越しを1回も経験していなかったりするなど十両の土俵でも活躍する実力を有していることから、今後は入幕ができるかが期待される力士の1人となっています。