東関部屋と親方紹介

2017年11月1日

元潮丸関が師匠を務める東関部屋とは

東関部屋は、当時外国出身力士で初の幕内最高優勝の実績を残した人気力士だった元関脇高見山関が興した部屋で、6年前に定年退職した後は元潮丸関が師匠を務めている部屋です。

その東関部屋は現在、墨田区内に部屋を構えており、観光地として共に知られている東京スカイツリーと浅草界隈のほぼ真ん中に位置しており、国技館へは歩いて20分ほどで行くことができます。ちなみに今年の夏場所後には帝釈天で有名な葛飾区柴又に部屋を移転する予定となっています。

東関部屋に所属している力士は、今年の春場所地点で幕下に白虎と高三郷の2人、三段目に美登桜、華王錦、高見劉の3人、序二段には駿河冨士、富士寿、札野の3人、序ノ口に和田の計9人となっています。これらの四股名の特徴としては本名の札野と和田を除いて、現役時代に人気力士だった振分親方の四股名である高見盛に因んだものや、師匠の出身地である静岡に因んだものが複数あることではないかと思います。力士の他にも先述した振分親方と、元幕内大飛関の大山親方の2人が後進の指導に当たり、幕内行司の木村要之助、幕内呼出の大吉のベテランの裏方と若手の床山1人とマネージャー1人の少なくとも17人が共同生活をしています。なお、東関部屋では後援会に入会している人を優先することもありますが、事前連絡をしなくても朝稽古を見学することができます。

東関部屋では、力士全員が毎日ノートに当日の相撲や稽古の反省や感想を書いて提出するという課題があり、これを通じて師匠とのコミュニケーションが図られています。ちなみに、元大関千代大海関が師匠を務めている九重部屋などでも、これと似たような取り組みがなされており、東関部屋は師弟関係を築くための工夫が徹底している部屋ではないかと思います。

現在の東関部屋の師匠、元潮丸関の紹介

現在、東関部屋の師匠を務めている元潮丸関は昭和53年5月生まれの38歳で、少年時代はソフトボールと野球のスポーツを主に経験する、いわゆる野球少年でした。相撲は未経験だったが、体格が大きかったことから先代東関部屋の師匠である元関脇高見山関のスカウトを受けて中学卒業後の平成6年春場所に入門して初土俵を踏みました。

出典: http://sumodb.sumogames.de/Rikishi.aspx?r=175&l=j

潮丸関は身長が170cm少しに対して体重が170kg近くある、あんこ型の体型の持ち主だったことから、これを活かしての突き押し相撲を強みにしているほか、相手と組んでも双差しになってからの寄りで攻めることも得意としていました。相撲が未経験だったことから、入門してから関取に上がるまでほぼ8年かかりましたが、次第にこの強みを活かした内容が伴ってきて関取の地位を安定して務められるようになりました。新十両の場所で11勝を上げたり、関取になった年の平成14年秋場所には新入幕を果たしたりするなどの活躍を見せ、幕内では上位には上がることはできなかったものの、通算11場所を務め、うち2場所で勝ち越しており、引退するまで関取として7年間土俵に立つことができました。先代師匠の定年に伴って平成21年夏場所後に31歳で現役を引退し、小野川親方として3週間ほど後進の指導に当たった後、東関部屋を継承して現在に至ります。

角界のロボコップとして有名だった元小結高見盛関の振分親方

東関部屋で後進の指導に当たっている元高見盛関の振分親方は昭和51年5月生まれの40歳で、現玉ノ井部屋師匠の元大関栃東関や、先述した元大関千代大海関、元大関琴光喜関と同い年で平成1桁から21世紀初頭にかけて幕内上位などで活躍した「花のゴーイチ組」と呼ばれるグループの1人とされています。高見盛関は相撲どころとして有名な青森県出身ということもあって、少年時代から相撲経験を積んでおり、特に小学校高学年から本格的に取り組み始め、中学横綱や国体優勝などの実績を上げるほどの強さでした。日本大学に進学した後は、上京したことに伴って環境の変化に対応しづらかったなどで生活面を中心に苦戦を強いられましたが、徐々に実力を上げていき、全日本選手権優勝などの実績を残したことが評価され、大学卒業後の平成11年春場所に幕下付出で東関部屋に入門して初土俵を踏みました。

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高見盛関の強みは右四つに組み止めて、胸で一気に寄って出る内容で、この過程で右の差し手を返す力が強烈であるという特徴もあり、この強みと、ここ1番の勝負強い性格を活かして入門してから1年も経たないうちに関取の座を掴み、その年の名古屋場所には新入幕を果たし、そこで10勝の好成績を収めて、いきなり三賞の敢闘賞を受賞する活躍を見せました。ところが、その次の場所で取り組み中に右膝の前十字靭帯を断裂する大怪我を負ってしまい、半年間休場せざるを得なくなりました。

怪我を直した後は少しずつ番付を戻していき、復帰して丸1年後の平成14年春場所には幕内に戻ってきました。そこから2年間は幕内上位で大いに活躍しました。具体的には、小結を2回経験し、三賞も技能賞を2回、殊勲賞を1回獲得しました。そして何よりも印象的だったのが、平成15年名古屋場所に前頭3枚目の番付で、現武蔵川部屋師匠で第67代横綱武蔵丸関と高砂部屋所属の第68代横綱朝青龍関から金星を獲得する実績を残しました。

ところが、活躍を見せた年の九州場所前の出げいこで右肩を亜脱臼する怪我を負ってしまったことや体が硬くかつ軽かったことから突き押し相撲に弱かったことから、それ以降は幕内中位に定着する力士となってしまいました。

高見盛関で印象的なのは成績以上に、取り組みで最後の塩を撒く際に顔や胸付近を交互にたたいて腕を上下に数回振るというオリジナルなパフォーマンスではないかと思います。これを行う意図として気合いを注入することであり、始めたきっかけは先述したような場所中の怪我を二度としないように気を引き締めようと思ったこととされています。このパフォーマンスの仕草がロボットのように、ぎこちないことから当時部屋頭だった第64代横綱曙関が高見盛関に対して「角界のロボコップ」という愛称をつけて広げたことでさらに有名になり、幕内の土俵では毎日、永谷園などから懸賞が付くなどの人気力士となりました。復活して11年間人気力士として土俵に立ち続けた後、平成25年初場所後に36歳で現役を引退し、振分親方として後進の指導にあたったり、解説席に登場するなどメディアに露出したりするなどの活躍を続けています。

少所帯大山部屋の師匠だった元大飛関の大山親方

東関部屋で後進の指導に当たっている大山親方の元大飛関は、昭和27年10月生まれの64歳で、半年後に定年を迎えます。中卒後の昭和43年春場所に地元の名古屋から元大関松野掘り関が師匠を務める当時の大山部屋に入門し、初土俵を踏みました。大山部屋は当時大飛関を含めても3人しか力士がいない少所帯のため、同じ一門の高砂部屋などで出稽古を積み重ねることで、左四つに組んでからの上手投げの強みを得て、入門して6年半近くで関取の座を掴み、9年ほど経った昭和52年初場所で新入幕を果たしました。その年の夏場所では1回幕内上位に当たる前頭2枚目まで昇進しています。しかし、足首の関節を捻挫したり、大腿部を複数個所怪我したりして休場していたことが響き、1年間幕下に陥落した時期もありましたが、最終的には通算6年間関取として土俵に立つことができ、昭和58年夏場所後に30歳で現役を引退し、山響親方として約3年間大山部屋で後進の指導に当たり、師匠が急死したことに伴って大山部屋を継ぎました。

しかし、資金面での問題などから、わずか2ヶ月弱で部屋は閉鎖され、先述した高砂部屋に移動し、部屋付き親方として後進の指導に当たった後、25年半後の平成24年初場所前に今の東関部屋に移って現在に至ります。

相撲協会内部での活躍として、相撲教習所の教官を長年務めたり、決まり手係を担当したりしたほか、最近では、相撲健康体操を作って普及に努めたりする活動も行っています。