遠藤関と追手風部屋について

2017年11月13日

角界に入るまで徐々に実力をつけてきた遠藤関

まず、遠藤関は平成2年10月生まれの26歳で追手風部屋に所属している力士です。彼の相撲歴は小学校入学前からで長いものの、初めは父親などから強制されていたため相撲に対する好意は少なかったらしいです。でも小学校高学年のときに巡業で第68代横綱朝青龍関を見て、相撲の豪快さと多彩な技やむき出しの闘争心に対して興味を示したことや、地元の相撲大会での敗北で指導者に叱責されたことをきっかけに本格的に相撲に打ち込むようになりました。日本大学の相撲部時代で3年生の時にけがに苦しんだものの、4年生になると全日本相撲選手権と国体相撲の個人戦の両方とも優勝するなどの実績を残したため、現在、相撲界の付出制度として最高の幕下10枚目格からのスタートを踏むことができました。追手風部屋に入った理由として、師匠の元大翔山関と同じ石川県穴水町出身で、且つ日本大学卒業だったことが挙げられます。


出典:http://www.sumo.or.jp/ResultRikishiData/profile?id=3464

超スピード昇進で人気を博していく遠藤関

遠藤関で象徴的なのは初期の超スピード出世と大怪我を一切周囲に明かさない昔の力士らしさではないかと思います。これらの要素と男前の表情が加わって、角界では若者から年配までの、幅広い世代の人気力士になっているのではないかと思います。その人気のおかげで今では懸賞に永谷園や日立建機が毎回登場するようになっています。

学生時代に培った実力は直ぐに開花し、入門した平成23年のうちに新入幕を果たし、翌24年には敢闘賞を初場所に取ったり、翌春場所では三役一歩手前まで番付を上げたりするなど、出世の速さに驚きを感じるほどでした。当然、大銀杏などの髷を結うことができず、ザンバラ髪のまま幕内上位で相撲を取っていることに対する珍しさに当時、大銀杏がないまま大関に上がれるのではないかという期待を自分も持っているほどでした。

力士が力の士であることを印象付けたことも人気要因だが

しかし今から2年前の春場所で取り組み中に左側の前十字靭帯損傷などの怪我を負って休場してから相撲の内容も、自分得意の左四つへ持ち込んでから攻めが早いなどの強い相撲から、がらりと変わってしまいました。

途中休場した翌場所には土俵に復帰したものの、取り組みを見ても怪我をした左の膝に全く力が入っておらず、あっさりと土俵の外に押し出されることも多かったです。このような怪我をしても一切テーピングをしなかったり、怪我をしたこと自体、自ら口に出すことをしなかったりするなどしていました。その行動は「相撲取りのような士(さむらい)が弱みを口に出したり、見せたりするのはご法度である」という力士が力の士であるという精神そのものを表しており、こういった男らしさとイケメンな顔立ちであるので、若い女性に限らず、老若男女問わず幅広い世代で人気を得ているのだと思います。

しかし、このように怪我をして本来の相撲が取れずに、あっさりと土俵を割る相撲内容を見て、テーピングなどの補助機能を付けなかったり、休場しなかったりし続ける意思は凄いものがあると思いますが、反面、怪我の回復が、かなり遅れたり、さらに別の箇所を痛めてしまったりするリスクを伴います。現に遠藤関も怪我の1年後に別の箇所を痛めて途中休場した場所もありました。また、誰も相撲を見ておかしいと分かるほど悪化しているのにもかかわらず、何もしなかったり公表しなかったりせずに出続けていることに対して賛否両論はあると思いますが、自分本来の力を出して相撲を取るのが当たり前と考えるファンには不快に思う人もいると考えられます。

ただ、現在は怪我も大分癒えて復調してきており、再び幕内上位で活躍する姿を見るのが楽しみです。ちなみに今でも四股名は本名のままとなっています。

師匠大翔山関とは

この遠藤関が所属している追手風部屋の師匠は先述したとおり、元大翔山関で、昭和41年7月生まれの50歳です。大翔山関も日本大学に在籍した時に全日本学生相撲選手権を優勝するなどの実力を持っていたため、幕下付出としてデビューできました。初土俵を踏んだのが平成最初の場所である平成元年初場所で、師匠が元関脇安念山関の立浪部屋に所属していました。幕下までは本名の山崎で相撲を取っていましたが、関取に昇進した平成2年夏場所から、この大翔山の四股名に変わりました。左四つになってからの右下手投げを強みとしていましたが、体重が190kg近くある大型力士だったことや、投げを打つ際の腰の負担が大きかったことから、最高位は前頭2枚目に止まり、現役生活は7年弱で短かったのが特徴です。しかし、その中でも現八角部屋師匠の第61代横綱北勝海関や現芝田山部屋師匠の第62代横綱大乃国関から合計3個の金星を挙げたり、敢闘賞を1回受賞したりするなどの成績を残しています。

引退後は、まず中川親方として活躍した後、今から19年前に元追風山関の先代追手風親方と年寄株を交換する形で追手風親方になり、部屋を興しました。ちなみに、この先代追手風親方の娘が追手風部屋の女将さんとなっています。

大翔山関が興した追手風部屋について

追手風部屋があるのは埼玉県草加市で、両国国技館から結構離れた位置にあります。部屋には遠藤関のほか、大翔丸関や大栄翔関などの関取5人を始め、力士は全員で18人所属しており、四股名に師匠の大や翔という字をもらう力士が多いのが特徴です。ちなみに最近では、ジョージアとして初の三役まで昇進した元黒海関も所属していました。この他にも十両格行司の式守鬼一郎と床山2人なども在籍しており、合計23人が共同生活しています。

追手風部屋でも相撲部屋の見学ツアーが組まれたり、両国で行われる本場所の千秋楽後に千秋楽ちゃんこ会が開かれたりしており、この機会に、ちゃんこ鍋を食べることができます。この内容は様々ですが、具体例として、鶏肉入りの味噌汁に近い様なちゃんこ鍋があります。